幼少時のおもひで3(幼稚園児)

もっとも幼少期の記憶がどこまでさかのぼれるのか考えていたが、限界は幼稚園の年中さんまでだった。自分の幼稚園では、昼食後はお昼寝の時間で、みんなタオルケットをかぶって寝ていたものだった。ある日の昼寝タイム、先生が誰もいなくなったとき、野◯くんて同級生がむっくと起き上がり、やにわにキツネ顔の?くん(思い出せず)の体にまたがり、突然ぼこぼこに殴り始めたのをぼんやりと見ていた。
?くんはもちろん大泣きし、先生が部屋に飛び込んできた。野◯くんは悪びれることもなく、自分が犯人と申し出た。野◯くんは懲罰として、園の外で一人立たされるの刑を申し渡された。園が終わるころ、ようやく中に入れてもらえたようだが、あとで本人に聞いたら、誰も見てなかったので、一度家に帰ってパンを食べてまた戻ってきたと言っていた。幼稚園児のくせに豪傑じゃのう。

中学になって同じクラスになった野◯くんから「筒井康隆」を教えてもらったために自分の人生観が大きく揺らいだのは、ずいぶん後の話である。

幼少時のおもひで2(幼稚園児)

人生初の絶望感を思い出しました。幼稚園の年長さんのころでした。

自分の通ってた幼稚園はキリスト教系だったので、昼食前後やお帰りのあいさつは、「主よ〜」から始まってやたら長いものでありました。その人生最初の悲劇の日もまたお帰りのあいさつが長く、腸の調子を悪くしていた自分には酷なものがありましたが、終わるまでは我慢できるだろうという変な自信が幼い私にはあったようです。

だが、そいつが命取りだった。
...
ようやくあいさつが終わって、立ち上がった瞬間、堰を切ったそいつが私のパンツの中に呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーんしたのでありました。けなげな私は周囲に気付かれまいと平然と歩き去ろうとしていたのでしたが、悪童どもがその匂いを見逃すはずがない。あっという間に真実を明るみにされ、なぶりものにされました。

それでも・・・それでも優しい先生なら何とかしてくれる。そう信じていた私を、先生は「こっちおいで」と自分の自家用車の後部座席に連れていきました。そして新聞紙を何重にも何重にも敷いた後部座席に私を座らせ、そのまま発車させました。そう、何ら処置されることなく、ただ黙って私の自宅まで護送されたのでした。このときの気持ちをいま思い起こすと、犯罪を犯したあげく護送車で連行されている様そのものでありました。いまだ実際の経験はありませんが、気分だけはこのときにたっぷりと味わいました。うららかな春の夕陽を浴びながら、静かに護送されていく情景がいまでもありありと思い起こされます。

3/11記録(ただ記録だけ)

ただ記録だけ。

‎3月11日14時46分。11日は訪問もなく、自宅での作業(提案書作成)となっていた。実はその日、225先物ミニの取引もしており、寄りで買いから入っていた。10275円での買いだった。12時前後に10210あたりまで落ちたのち、14時40分には10270あたりまで戻っていたので、ややほっとしていたときだった。

自宅2階でモニタ上の225の動きを見て、ほっとしているときに、いつもの軽い揺れがやってきた。茨城沖震源の軽い地震は月に何回も起きているので、それだろうと思っていた。225の動きにも影響はなかった。
そろそろおさまるはずなのに、徐々に大きくなっていく。あれ?なんだか横揺れがひどいぞ。と思っているときに、2階の窓から、幼稚園バスが見えてきた。家内たちが幼稚園バスから子供だちを出迎えている。揺れがひどくなるとともに、母親たちが慌て始めた。しかし、子供たちは走り回って何も気づいていない。母親があわてて呼び戻すも聞かない。


そこにいたって、この地震の揺れが異常なことにようやく自分も気づき、モニタをチェックすることなく、慌てて1階まで降り、外に出て、子供たちの確保に走った。出てみると、電柱は揺れ、家々はきしみ、自動車の警報音があちこちから聞こえてくる。向こうの森に目をやるとなんだか、黄色い煙が立ち上っている。すわ火事かと思ったら、花粉が一斉に飛び出していたのだった。母親たちがすでに子供たちを確保して、みんなで座り込んでした。揺れを見て「キャー」と言い、煙のような花粉を見てさらに「キャー」と言っていた。ここは震度6弱だったようだ。


ここで不思議と自分がかるい躁状態にあることを自覚していたが、表情にはあまり出さなかった。母親たちと子供たちの周囲に危険がないことを確認したら、周囲の住宅で誰か困っている人はいないか見るために走ってみた。家々から奥さんたちが窓やドアを開けて出てくる。中には皿が割れたとか言っている人もいたが、とくに助けを必要としている人はいないようだった。そうこうするうちにも、また強い揺れが襲ってきたので、母親と子供たちのところへ戻った。母親たちは一様に不安そうな顔をしているが、幼稚園児のうち、不安な顔をしているのは少数で、多数はいつも通りに元気にへらへら笑っている。とりあえず外にしばらくいることにし、ようやく落ち着いてきた。


ここで株価をモバイルチェックしてみたら、これができた。しかし、株価はずるずると地滑りのように下がっていた。いま思えば、ここで先物も現物も処分しておけばよかったのだが、なぜかそんな悠長なことをしている気分にはなれなかった。先物は引けで決済するようになっていたので、それにまかせた。東電株もここで処分できたはずだが、なぜかしなかった。ここで、車いすの夫婦が近くにいることを思い出し、そちらへ走った。玄関のピンポンを押すが全く反応がない。どうしようか迷っていたら、近くの家から停電の声が。そうか、停電だとピンポンも使えない。


ドアまで行って、引き戸を開けてみたらこれが開く。声をかけながら開けると、無事な夫婦が車椅子で出てきた。安全を確認してまたみんなのところへ戻る。母親たちは顔面蒼白というか不安な気持ちがみな顔に出たままだ。家の中には入れないという。そこで小学生の子供たちがまだ学校にいることにみな気がついた。幼稚園児の子を母親にまかせ、自分は学校へ行った。行くと、校庭に生徒が全員出され、すでに整列していた。その周りを保護者がおおぜい囲んでいる。先生たちは保護者に後ろへ回るよう指示している。壇上では校長がこれから指示をするので整列して待つように行っていた。


なかなかおしゃべりをやめない保護者に校長と先生が一喝を入れ、すこし声がおさまった。校長は、現状把握できていることや気象庁の発表を説明したのち、生徒たちに地域別の列を作るように指示していた。驚いたのは、その地域プラカードはすでにしっかりしたものが作られて準備されていたことだ。有事のマニュアルがしっかりできているようだ。家に帰っても親がまだ帰っていないはずの生徒は寄り分けられて、先生のところへ集約されていた。地域別に並んだ生徒の後ろに該当の保護者が並び、みなでゆっくりと移動する。途中の横断歩道は信号が停電でついていないため、先生と保護者で線を作って、移動する生徒の列を守った。子供に聞くと、同級生たちの中には泣き出したり、「世界の終りだ」とか言ったりして不安になるものと、ただ「ヒーハー」となぜか喜ぶものと二手に分かれていたとのことだった。
その後、家に戻り、防災グッズを出してきて、停電対策を練っていった。近辺の家庭では電気ランタンなど灯りを用意していないひとたちもいたようだ。とりあえずうちにあるものを寄り分けて、余分なものを足りない人に分けられるようにしておいた。結局電気ランタンのみ、近くの車いす夫婦に貸すだけにとどまった。

長々と書いたが、一応記録まで。

とりあえず今後の選択肢

1)やっぱり原発推進(SMR、TWRなど安全なもの新設。ただ猛烈な批判が・・)
2)火力発電増強(温暖化無視)
3)水力発電増強(環境破壊無視)
4)安定感はないがクリーンエネルギー増強(あまり助けにならん?)
5)首都圏への機能偏在を解消し、各地方の電力必要量を平準化して現状で賄う(結局総量は足りん?)
6)電気料金や税制を変え、電力消費を抑制する(生活経済レベル下げ)
7)省電力技術をより進化させ、必要電力量を落とす(技術的課題は?)
8)蓄電技術を進化・実用化させ、蓄電した電力によりピーク時電力にまかなえるようにする(技術的課題は?)
9)「休日の分散実施」など生活パターンを変化し、必要電力量を抑制
10)他国から買う(可能か?)
11)発電限界と使用電力量のリアルタイム公開で消費抑制
12)(東西の電気代格差が大きく拡大した場合という前提付きだけど)東西周波数変換の新規設備を建て、裁定取引で新設コストを回収・運営する「電力アービトラージ会社」の設立により、東西で電力融通を拡大する。
13)メタンハイドレート発掘を進めて資源国へ

他にもあるんかな。

幼少時のおもひで(小学校1年生)

最近、年をとったせいか、かなり以前幼少時のことをふと思い出す。

そこで、ぴかぴかの小学1年生おしっこおもらし事件を記録しておきたい。

入学してまだ2-3日しか経っていないときだと記憶しているが、おそらくまだ入ったばかりで学校の様子も分らず、トイレはひたすら我慢していたのだろう。しかし、下校前のホームルームだったか、まあ夕方あたりでとうとうおしっこの我慢ができなくなり、それでも言い出せず、あああと思う間に漏らしてしまったのだった。椅子の下に徐々に広がっていく水たまり。知らんふりを決め込むも、隣の席の女の子が当然のように見つけてしまう。

「ねえ、あんたの下に水がたまっとるよ?なにそれ?おしっこ?」

とずばずば切り込んでくる。

「ほんなわけないじゃろうが。さっき花瓶を落したんよ。あとで片づけるけえ、だまっとけ」というような、意味のない切り返しをしたような記憶がある。

その女の子はいったん「ほうなんねえ、しかたないねえ」といったん引き下がったその瞬間、「せんせーい、桑田くんがおもらししてますぅ」とでっかい声で言いやがった。このときにたしか人間てこわいと思った。

クラス中が騒然となり、自分はいったん先生にトイレに連れて行かれ、その後下着をかわかしに保健室に連れて行かれた。しばらくしてクラスに戻ったが、その後みんなから何と言われるのか、相当びびっていたおぼえがある。しかし、案に相違して、何も言われなかった。みんなにとってもどう扱ってい良いかわからない事象だったのだろうか。

それにくらべ、同じクラスの折◯君は、次の日だったろうか、クラスで最初におならをしたために、小6に至るまで「へこき」の異名をただ一人背負うことになった。学年があがるたびに「おまえらもへくらいするじゃろうが。おまえもこないだ、したじゃんか。なんでわしだけ、へこきなんじゃ」と毎年汚名返上を図っていたが、みんなは「それはそうじゃが、やっぱりへこきはおまえだけ」と苛烈な判決を下されていた。


なぜ自分は「おもらしくん」と言われず、折◯君が「へこき」と呼ばれ続けたのか。いま思えば、大変な僥倖であったわけだが、タイミングと起きた事柄の衝撃の大きさなどが違ったのだろうか。民衆というものは不思議なものである。もちろん「おもらし」をしたわしは民衆以下であったが。



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人は遠い家族より近い隣人との間で生きるのか

近所のお宅に気仙沼で被災された親御さん(おばあさん)を呼び寄せた方がいる。親子4人の家庭におばあさんを引き取った形だ。1ヶ月ほど経過して、結局気仙沼へ戻りたいと帰っていった。どこへ帰ったのか聞いてみたら、友達のいる避難所とのことだった。生まれた地で、一緒に暮らしていた人々とやっていきたいのだろう。